背番号3 |
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この背番号についての前口上は,わずか4文字で完了する(宇宙刑事シリーズではないが…)。 |
それ以外の言葉は一切不要である。 |
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ノンキーズでの背番号3は,1971(S46)年の高田哲也選手が記録上第1号。その後4年の空白があり,1976(S51)年に三上昭二捕手がつけている。 以前にも書いたが,71年は長嶋選手として6度目の首位打者を獲得した年。また,76年は長嶋監督として2年目で初のリーグ優勝を飾っている。 |
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3年間の空白後,1980(S55)年から和田清内野手がつけた。1989(H1)年までの10年間で主将を務めた1985(S60)年を除く9年間3番をつけており,現時点(2007年)ではノンキーズでもっとも長く3番をつけた選手である(2006年の交流戦にも3番のユニフォームで出場した)。 80年は,長嶋監督が理不尽な“辞任”をした年である。王貞治選手現役引退もこの年で,当時この世の終わりを予感するかのような絶望的な気持ちになったジャイアンツファンは少なくないと思う。 |
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4年間の空白後,1994(H6)年に安田敏明捕手がつけているが,翌年監督に就任して30番に変更しているので3番は1年間のみ。9.23事件の日,軟式野球同好会(当時)の面々を驚愕させた凄まじい打球のレフト線二塁打は,この背番号をつけている時に放ったものだった。 94年は,長嶋監督が2度目の指揮をとった2年目で,“国民的行事”の10.8最終決戦を制してリーグ優勝。日本シリーズでもライオンズを破って,監督として初めて日本一になった年である。 |
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1997(H9)年に伊東大祐外野手が1年間つけた後,1999(H11)年入団の赤坂武道三塁手がつけ,主将を務めた年(2004・2006)を除いて今日に至っている。赤坂は初出場では遊撃手だったが,その後は不動のサード。ミスターと呼ばれ始めたのは入団2年目ぐらいからで,言い出したのは油矢投手だったと記憶している。 赤坂について語る時,別頁でも触れた打撃の勝負強さに加えて,三塁守備の堅さを取り上げたいところだが,過去のスコアを地道に調べていかねば数字が出ず,今回はそこまで至らなかった。 サード赤坂の背番号3は今年で7年目。和田清内野手の9年間を超えてノンキーズ最長となることは確実である。 |
赤坂武道三塁手 |
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1999年5月7日 読売杯@ 月寒高台 大五郎クラブ戦 【初出場試合】 |
1999年7月27日 道新リーグE 大曲 福山醸造戦 |
2000年7月4日 タイムス杯A 美香保A K−WINS戦 |
右・川端遊撃手(この年主将),奥・渡辺中堅手。写っていないが,川端に送球しようとしているのは,黒澤左翼手。 |
2001年5月8日 たそがれ@ 美香保A 札幌市消防局戦 |
ノンキーズ21世紀第1戦は,ユニフォームが現在のものに替わって初めての試合でもあった。4年連続開幕投手(当時まで)の油矢が7回を完封。最後の打者が打ち上げたファウルフライをサード赤坂がキャッチして2−0で勝利をおさめた。 |
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掘り出し写真@ |
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2007.1.21 UP |