背番号6
6番
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 近年の北海道では,通算2000本安打を達成し,2007年度シーズン限りで惜しまれつつ現役を引退したファイターズ・田中幸雄の背番号という印象が強いのであろうが,個人的には,V9時代の土井正三から80年代の篠塚利夫に続く,ジャイアンツ二塁手の背番号という印象がある。篠塚引退後,落合博満,“拝啓・石井浩郎です”さらに2006年までの小久保裕紀と4番打者が続いた時期もあったが,石井がマリーンズにトレードされた後,小久保までの間は川相昌弘がつけ,現在は小坂誠と,内野守備が光る選手に受け継がれている(ジャイアンツでは)。
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 ノンキーズで明らかになっている背番号6の第1号選手は,3番の項でもご紹介した和田清内野手で,またも1971(S46)年のこと。実はノンキーズが誕生した1961(S36)年に創設者の新妻浩選手が6番をつけていたとする資料も存在するのだが,未確認の部分があり今回のリストには入っていない。
 毎度同じことを書いて恐縮だが,1972(S47)年から1975(S50)までの4年間は背番号に関する資料が発見されておらず,空白期間とせざるをえない。普通に考えれば,和田選手がつけていたのではないかと推測されるが,なにせ誰一人として背番号を確定できない(監督の背番号ですら決定打がない)4年間では,如何ともし難い(※1)。
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 1976(S51)年からは,坂本芳雄内野手が6番。坂本選手は翌1977(S52)年に主将を務めたため,この年は西村元選手が6番をつけていたが,1978(S53)年からは再び坂本選手が6番をつけ,5年連続で背負っている。この5年間の中には,ノンキーズの歴史に燦然と輝く(※2)1984(S59)年の,たそがれ大会準優勝という偉業も含まれている。
 たそがれ大会で準優勝した1984年のノンキーズニュースを見ると,試合結果等が詳細に記されている。これは,この年マネージャーを務めた坂本選手が時間と労力をかけて作成したもので,当時の盛り上がりがよくわかる貴重なものである。言うまでもなくノンキーズニュース作成の大先輩であり,(許可が得られれば)そろそろ近づいてきたノンキーズ50周年記念事業のひとつとして,何らかの形で復刻したいものである。
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 坂本選手が監督を務めたため30番に変更していた1987・88(S62・63)の2年間は,吉田敦投手が6番をつけたが,昭和から平成に変わった1989年から1998(H10)年までは,またまた坂本選手が10年連続でつけていた。結局6番をつけていたのは通算で17年となり,ひとつの背番号をこれほど長い間つけていたノンキーズ選手は他に存在しない。
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 1999・2000(H11・12)の2年間,2度目の監督を務めた坂本選手が現役を退いた後の2001(H13)年,新入団の芝山泰淳内野手がつけたが,残念ながら2002(H14)年限りで引退し,その後2008(H20)年の現時点に至るまで,ノンキーズで背番号6は空き番号となっている。
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※1〜“はじめに”の頁でも触れたが『背番号の系譜』作成の基礎資料は,現存するノンキーズ資料を大橋・元外野手,日置遊撃手が時間をかけて洗い直し,さらに大橋氏による聞き取り調査の結果が加わって出来上がったものである。武田が怠慢してワカリマセ〜ンとやっているのとは,事情がまったく異なるのだ。
※2〜小松政夫ではないが(年齢が30代半ば以前の方には,意味が通じないかも知れませぬ…)。
坂本芳雄二塁手
まだデジカメがない時代でした…。
この試合は8-8の引き分け
1998年5月24日 道新リーグ@ 樽川球場
 滝野公園BOSE戦
坂本選手年度別成績

坂本選手-個人タイトル・役職


芝山泰淳内野手
初得点直後
2001年6月7日 日刊スポーツ杯@ 雁来球場
 札幌アニマルズ戦
芝山年度別成績
2008.1.6 UP

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