背番号7
7番
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 与那嶺要,柴田勲といったジャイアンツの名トップバッター,さらにブレーブスの福本豊,タイガースの真弓明信,ライオンズの石毛宏典,そして個人的に大ファンのジャイアンツ吉村禎章,さらに今オフジャイアンツからファイターズへ移籍が決定した二岡智宏と,個人的には走力と長打力を併せ持った選手の印象が強い背番号である。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 吉村は,入団時からのファンである。50番トリオ(他に駒田・槙原)の中では一線に出てくるのが一番遅かったが,重心の低いフォームから放つ力強い打球は実に素晴らしく,熱狂するものがあった。
 1988(H63)年7月6日,のジャイアンツ北海道シリーズ第1戦で,自身プロ通算100号となる記念のホームランを放った吉村が,その後レフトの守備についていて打球を処理しようとした際,突っ込んできた味方野手と激突して左膝の靭帯断裂という重傷を負った場面を,すぐ近くの外野右中間芝生席で見ていた。ぶつかった時の“ボゴッ”という音を今でも記憶している。吉村が担架で運ばれるのを見ている間も,どれぐらいの怪我なのか見当もつかなかったが,翌日新聞を見て事の重大さに暗澹たる気分になった。あの事故がなければ,もっと凄い記録を多数残せたのではと思うと,悔やまれてならない。せめてもの救いは,翌年すぐ復活して1998年まで現役生活を続けたことと,現在もジャイアンツのコーチとして現場にいることだろうか。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 復活といえば,2006(H18)シーズン後に一度ファイターズから戦力外通告を受けながら,同年再びファイターズと契約した坪井智哉も背番号7である。“PL〜青学〜東芝〜阪神”と坪井の球歴で始まる印象的な応援テーマは,ファイターズの試合を見る方々には,かなり浸透していると考えてよいだろう。2008年は調子がよくなく,1軍での出場機会が少なかったが,パ・リーグCS第1ステージでは1試合4安打するなどして存在感をみせていた。

 ノンキーズで記録上の第1号は,1971(S46)年の黒岩裕選手。この方は,昭和40年代のホームラン記録に多数登場するが,その詳細は不明である。当時のノンキーズをご存知の方で「こんな選手だった」と,ご教示いただける方がいれば幸いとは思うが,どうであろうか(まぁ,このページのアクセス状況を考えると,望み薄という気はしているが…)。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 記録上は,その10年後の1976(S51)年に近松左武郎選手が1年間だけつけ,3年間の空白期間後,1980(S55)年から8年連続で渡辺聡外野手がつけている。現在までで,ノンキーズでもっとも長く背番号7番をつけていた選手である。
 渡辺選手は,2006年から行われているノンキーズ交流戦に3年連続で出場している。初年度は大敗したOBチームの中で走者として唯一ホームに突入する果敢なプレーを見せ,今年も投手として出場している時に,三塁手岡本からの一塁送球をマウンド上でカットし一塁に送りなおして打者走者を刺すという前代未聞の中継プレーで“珍プレー賞”を受賞するなど,現在も年に一度ノンキーズで活躍している。
 なお,渡辺選手は現役時代にユニークな異名を持っていたと聞いたが,先輩に失礼があってはいけないので表記は控える。
…………………………………………………………

 1塁コーチャーズボックスに『腕組み』をした一人の威厳を保った監督T氏が立っていた。そこからが美香保球場での珍事の始まりであった。『腕組み』は,バッターに対して待て「見送れ」のサインであった。バッターW氏は,サインの確認をする。監督のサインは『腕組み』,一球目ストレート真中を見逃し「ワンストライク」。二球目のサイン確認も監督は『腕組み』……………見逃し「ツウストライク」。三球目も同じサインであった。結果は,見事サイン通りの見逃しの三球三振。W氏は,チームプレーに徹し監督(上司)に忠実であった大(代)打者であったが,それを契機に職場では,上司のサインを無視する人生になってしまった

渡辺外野手・思い出珍場面
(ノンキーズ40周年記念誌から)
…………………………………………………………
渡辺聡外野手
 2006年,第1回交流戦での渡辺外野手
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 その後,4年間の空白期間をおいて1992(H4)年からは,片野景祐外野手が3年間つけた。片野選手は同期入団の渡辺 敦中堅手,岡本泰典投手とともに,後の2000(H12)年に“三十路〜ズ”を結成し,20世紀終盤かつ平成のノンキーズで中心選手として活躍。1999(H11)年にはホームラン王のタイトルを獲得している。考えてみれば,三十路〜ズはノンキーズ版“50番トリオ”と言ってもよいのかもしれない。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 片野選手も,2006年から交流戦に3年連続出場と,年に一度ノンキーズ戦士として復活している。2007年の第2回開催時には,Bチーム右翼手として途中から出場。8−7とBチーム1点リードで迎えた最終の7回表,石田選手が三塁走者に出ており,一打同点の緊迫した場面。しかし,ここでAチーム監督でもあり代打で登場した川端選手が,Bチームクローザーの油矢投手から快音を残して放った右中間寄りの打球を片野選手が難なくキャッチして試合終了。ウイニングボールを手にした。
ホームラン王・片野選手
 1999年のタイトルホルダーを特集したファイル作成時に使用した片野選手の写真を再掲(この時は背番号25番)。
 なお,この1999年タイトルホルダー特集も,そのうちにご紹介する機会があるかもしれないが,Wordで作成したファイルに武田が酔っ払ってかけた保護パスワードを忘れたため,作成直後から再編集不能という,いわくつきのファイルである。
片野選手年度別成績

片野選手タイトル・役職

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 1995(H7)年,ユニフォームの変更にともない,片野外野手が25番に変更(片野選手自身の当時の年齢にあわせた…という話を記憶している)。大橋孝行外野手が7番をつけた。既にお伝えしたとおり,大橋選手は,背番号の系譜の基礎資料を作成いただいた方である。誠に感謝の極み。
 なお,大橋選手の背番号7番時代については,大橋選手自身が執筆された別項をご参照いただきたい。
大橋選手背番号7番
大橋選手
2002年8月18日 親善試合 厚別共済球場
法政大学戦
 この時の大橋選手は背番号11番。これが現役最後の試合であった。
 しかし,大橋選手も2006・2007年と2年連続で交流戦に出場と,年に一度ながら依然ノンキーズで健在。特に2006年開催の第1回では,OBだけで編成されたチームのなかで慣れない捕手として出場するという万能なところをみせた。
大橋選手年度別成績

大橋選手タイトル・役職

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 大橋選手が監督に就任して背番号30番に変更した1997(H9)年からは,山田卓司遊撃手が2年間7番をつけた。山田英之投手の甥で,攻走守すべてで俊敏なプレーが印象的な好選手だった。武田の個人的感覚で恐縮だが,沖山女史に少し雰囲気が似ていた記憶がある(現在写真と記録を捜索中)。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 1999(H11)年から2001(H13)年までは“むかぽん”の愛称を持っていた向井晃平内野手が7番。
 まだノンキーズニュースのWeb化など遠い先と考えていた2001年春頃,実験的に作成したページに,この年から変更になった現在のユニフォーム姿で登場してくれたのが向井選手である。この時,なぜか他の写真が表示されず,向井選手の写真だけが表示されたことを記憶している。
向井選手
これが,その時の写真。
 向井選手は,試合でヒットを打ったら現役引退するという意向を入団当初から表明していた。2001年7月22日(日)の道新リーグ第5戦(対アースクウェイクス・真栄A球場)でレフト戦に初安打を放ち,シーズン終了後に引退した。
向井選手初安打

向井選手年度別成績

 ところで,個人成績表をご覧いただくとおわかりかと思うが,先にご紹介した片野選手も,向井選手同様2001年シーズン限りで現役引退している。ところが,片野選手,向井選手ともに,2002(H14)年シーズンもノンキーズで1試合出場の記録があり,打席にも立っている。これは,8月18日(日)に法政大学職員チームとの親善試合があり,ノンキーズの選手が足りないという事情によって,前年限りで引退していた両選手が1日限定で出場したものである。このことをどう取り扱うかは特に協議等していないが,共にノンキーズの公式記録に載っていることから,片野選手・向井選手の現役選手期間は,2002年までとするのが正確なところかもしれない。
向井選手復活
2002年8月18日 親善試合 厚別共済球場
法政大学戦
 引退してユニフォーム(先の写真のもの)をチームに返還したため,一世代前のユニフォームでこの試合に出場した向井選手。ただし帽子は手元にあったので,このように珍しい組み合わせとなった。
記念品
 親善試合終了後,法政大学チームから3枚一組のタオルセットを記念品としていただいた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 2年の空白期間の後,2005(H17)年からは竹田直弘二塁手が7番をつけ,現在に至っている。竹田選手は入団2年目の2006(H18)年にはマネージャーを務め,第1回ノンキーズ交流戦の開催に尽力した。
 竹田選手が入団した2005年は,ほかにも多数の新入団選手を迎えることができた年で,既に2番の頁に登場した和田幸憲外野手,ローテーションに入り今季私大親睦大会で胴上げ投手にもなった斉藤哲平投手,初登板で完投勝利投手になるという快挙を成し遂げた北浦淳市投手,世界の平和を守るため昨季限りで現役を退き悪と戦っているスーパーヒーロー及川雅文・元外野手が新人として入団。また,ミスター癒し系・田口聖志二塁手が北見から移籍入団している。まるで“田口聖志とルーキークインテット”とでも呼びたくなるような大盛況振りで,それぞれの選手が現在のノンキーズを支える重要な役割をはたしている。
 なお,“つながり”の頁でお世話になっているORANGE様,また,現在は違う職場に移籍しているが,今年もノンキーズの試合を観戦いただいている前田女史も2005年度の加入である。
※田口選手は2004(H16)年から移籍しており,ノンキーズ各種行事にも参加していたが,選手登録は2005年からであるため,この年の新入団選手の一人と考えた。悪しからずご了承いただきたい。
竹田選手
2005年5月29日 道新リーグA 真栄球場
BOSE戦
8番右翼手でノンキーズ初出場の竹田選手
竹田選手年度別成績

竹田選手タイトル・役職


このペースだと…
2008.12.17 UP

もどる バックホーム