背番号8 |
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背番号8番というと,武田にはまずジャイアンツの高田繁。今でこそ一芸に秀でたというような選手も好むようになったが,子どもの頃は,いわゆる攻走守三拍子揃った選手が好きで,高田はその筆頭と言える存在だった。さらに「外野手の捕殺大好き男」でもあるので,素晴らしい送球で走者を刺す高田への思い入れは,さらに強くなった。 |
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1980(S55)年は,第1期長嶋ジャイアンツ最後の年で,3位という成績とともに,ジャイアンツファンでこの年に良い印象を持つ方は少ないのではないかと思う。そんな年の7月1日(火),武田は札幌円山球場で,生まれて始めてジャイアンツの公式戦を生で観戦した(カープ戦)。 この年は,高田繁の現役最終年でもあった。試合終盤にレフトの守備についた本物の高田の姿を見て,えらく感動した。さらに,カープの打者がレフト線に放った打球に対して,信じがたいほど身体を傾斜させて打球を追うのを見て,プロ野球選手の凄さを実感したことを覚えている。また,この試合が現役選手としての王貞治を見ることができた唯一の機会でもあった。 試合は,先発の江川と北別府による投手戦。2回に山倉の犠牲フライで王が生還した1点を江川が守って完封勝利をあげた。 |
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次に8番となれば,個人的にはもう原辰徳しかいない。1980年秋,長嶋監督が解任され,さらに王選手が現役引退という,ジャイアンツファンにとってこの世の終わりかという重苦しい日々が,ドラフトで原を1位指名できた瞬間,異常といってよいほど劇的に明るい日々に変わった。個々人の感覚の違いや,マスコミ等の煽り方といったことももちろんあったとは思うが,あの地獄の底から一気にパラダイスに変わったような周囲の感覚や雰囲気は,とてもではないが語りきれない。あまりにもジャイアンツファンの期待が高かったことが,かなりの好成績(通算382本塁打は2008年終了時で日本プロ野球史上17位タイ)を残したのに,正当と言い難い扱いを受けることがあった理由の一つではなかろうか…。 |
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入団から3年目ぐらいまでは,原が打席に入ると,ジャイアンツ応援団はトランペットで,ヒーローもののテレビアニメ『エイトマン』の主題歌をアレンジしたテーマを吹いていた。原がジャイアンツに入団した1981(S56)年には,このテーマに,原曲を一部アレンジした歌詞をつけたシングルレコードも発売されていた。武田,このレコードを所有しているが,現在どこに保存したか不明である。 エイトマンといえば,漫画の原作者,およびテレビアニメの主題歌を歌った歌手の関係で,どこかスキャンダラスな一面がないこともない。そういったことを,テーマ曲を選定した方が承知していたのか,やや興味深いものがある。 |
とってつけたようになって申し訳ないが,現在の北海道で背番号8番となれば,ショートの守備といえばこの人,といってよいファイターズの金子誠の印象が強いだろう。 |
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ノンキーズでの記録上の8番第1号選手は,毎度のことになるが,10周年記念誌作成によって背番号が明らかな1971(S46)年の長谷川勝利遊撃手。1971年には年間2本塁打を放ち,ホームランキングを獲得した。 長谷川選手は2番の項にも登場したが,その時はホームラン記録を出していなかったので,ここで掲載する。 |
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その後,1976(S51)年に大植俊博外野手が8番をつけ,記録上3年間の空白後,1980(S55)年から3年間は再び大植選手。1983(S58)年は大植選手が主将になり背番号10番に変更したため空白だが,1984(S59)年から5年間は,三たび大植選手。大植選手が監督となり30番をつけた1989・90(H1・2)年の2年間は吉田敦投手がつけ,1991(H3)年は,実に4度目となる大植選手に戻った。8番をつけていた通算年数は10年で,現時点では大植選手がもっとも多く8番をつけていたことになる。 ただ,大植選手は1977(S52)年はマネージャーを務めたが,このことで背番号を変更する必要はなく,さらに1978・79(S53・54)年もプレーした記録があることから,この3年間も背番号の記録がないだけで,8番をつけていた可能性が高い。決定的資料がないので,今回は通算10年とするしかないが,仮に3年プラスして13年とすると,2008年終了時までのノンキーズでは,同一背番号をつけていた年数で第5位である。 |
2007(H19)年9月16日(日)第2回ノンキーズ交流戦で,1993(H5)年に行われたOB戦以来14年振りに復活した大植選手。この試合ではBチームの2番一塁手として先発出場した。 |
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その後,1992(H4)年から1994(H6)年まで3年間は岡本泰典投手が8番。このノンキーズニュースWeb版では時々微かに触れている,1994(H6)年秋に起きた“9.23事件”のため,第6代ユニフォームの背番号8番は,まともな形としては現存していない(岡本投手が所有しているとの説もあるが,未確認)。 |
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1995(H7)年から2年間は伊東大祐外野手が8番をつけた(この年から第7代ユニフォームを新調)。 伊東選手は,95年7月9日の札専2回戦(計工ドローアズ戦)を観戦にノンキーズベンチを訪れ,その3日後に発行された,この年第19号のノンキーズニュースで電撃的に入団が発表された。同時に,たそがれ大会にも登録されたことが報じられている。 (ニュース作成:庭田智マネージャー【当時】)。 |
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また,このノンキーズニュースの中で興味深いのは,伊東選手と同時に楠智裕選手,内山隆史選手も,たそがれ大会に登録されたと報じられていることである。楠・内山両選手は,既に現役を離れていた。 楠選手は,7月20日発行の第21号ノンキーズニュースで自主トレを開始したと報じられており,武田は美香保A球場で落合博満を思わせるフォームで楠選手が打席に入った場面を見た記憶があるのだが,この年の背番号記録に楠選手の名前がなく,個人記録も残っていない。そのため現時点では背番号何番で出場したのか,実は別な年の出場だったのか,調査中であることをご了承いただきたい。 なお,内山選手はこの年は試合に出場していない。 |
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1997(H9)年からは,この年新入団で“花の平成9年組”の1人黒澤規央外野手が8番をつけた。自ら次期4番と宣言し,明るいキャラクターで存在感を示した選手であるが,2001(H13)年をもって惜しまれつつ現役を引退した。 ただし,黒澤選手も他のOB同様,2006(H18)年から始まったノンキーズ交流戦に初年,2年目と連続して出場し,年に一度勇姿を見せてくれている。さらに,OBとしてノンキーズの試合に駆けつけてくれることも多々あり,形は変わってもノンキーズとの絆は続いていると考えてよい。 |
1999年9月4日 練習試合 清田グラウンド ビッグウインズ戦 |
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