円山球場の記憶

 背番号の系譜・8番の項に関しまして,色々と書いているうちに分量が多くなったものをまとめました。素人の作文にお付き合いいただける方のみご覧ください。
もどる
1980カープ戦
 試合開始は13時30分。当時中学生だったので,普通なら学校がありズル休みでも敢行しなければ観戦は不可能だが,たまたまこの日は学校で避難訓練があり,授業もなく午前中で帰ることができたため,外野芝生席の招待券をあらかじめ読売新聞の販売店(どこかは忘れた)で入手し,友人2人(なぜかどちらもカープファン)と走りまくって球場に駆けつけた。
 しかし,2万8千人しか収容できない円山球場の,座席というものが存在しない外野席に試合開始直前に到着しては,当時のジャイアンツ戦でまともな観戦スペースがあるはずがない。そこで,芝生席後方の,最上端に有刺鉄線が張られたフェンスによじ登って見ることにしたが,有刺鉄線にもめげず上端に座って観戦しているオトナ達の中に割り込める度胸や要領があろうはずもなく,フェンス途中にぶらさがり振り返ってグラウンドを見る体勢をとり,腕が限界に達すると一度降りて休憩し,再びよじ登るということを何度か繰り返して,最後まで試合を見た。スクラップを見ると,この日の試合時間は2時間29分。プロ野球の試合時間が現在よりかなり短かったことと,ジャイアンツの先発投手が,全盛期にはテンポのよい投球を展開し,試合を早く終わらせることで定評のあった江川卓だったことも大きかっただろう。
1980-7-1
1980年7月2日付け日刊スポーツから
円山球場外野席
1988年7月8日付け日刊スポーツから
 外野席は,このような状態(1988年)。写真奥に,フェンスにぶら下がっている人が写っているが,1980年の時は,ちょうどこんな感じで観戦していた。「危険ですからお席でご覧ください」と何度も場内アナウンスが入るが,席そのものがないのだから,いかんともしがたい。この頃も場内警備員はいたが,現在のように細々と注意しに来なかった気がする。ここでそのことの良い悪いを言うつもりはないが,のどかな時代だったということは,言えるのではないだろうか。

 この当時は,夜にデーゲームの模様を録画でダイジェスト中継していた。仮に学校を休んだとしても,チケットの入手が困難を極めたので,せっかく地元札幌にジャイアンツがきてゲームをやっているのに,テレビで観戦するしかない状態が続いた(しかも,試合は既に終わって結果も知っている)。こういう野球に飢えた状態に身を置いた経験は,後々の人間性になんらかの影響を与える…のではないかと思う。
 初観戦した試合の夜,録画中継を見ていて複雑な思いを抱いた。王がライト前にシングルヒットを打った直後,アナウンサーが「(お客さんは)王選手のヒットを素直に喜んでいます」とコメント。その言葉のニュアンスに“ヒットぐらいで喜んでいるのか”といった,地方のファンを蔑んだとまでは言わないが,そう受け取れるものを感じて考え込んでしまったことを,なぜかいまでも覚えている。
1988ドラゴンズ戦
 前日の試合で吉村が重傷を負い(※1),この試合では3回に呂明賜が打球を追ってライトフェンスに激突し早々と負傷退場。さらに4回には先発の槙原が先制点を許し,この年ここまで北海道シリーズ連勝中という事実を忘れてしまうほど重たい雰囲気が球場に漂った。しかし,呂に代わって守備についた川相昌弘(※2)がドラゴンズ先発の近藤真一から,自身プロ1号の同点ホームランをレフトへ打ち込んで雰囲気が一変。7回には篠塚の左中間を破る満塁一掃二塁打等で4点をとって突き放し,直後の8回表に宇野にソロを打たれたものの,これで3タテ決まりだべ…と思った。ところが,9回に槙原が打たれて二・三塁に走者を背負い,リリーフした斉藤雅樹が二死から仁村弟にセンターへバカでかい同点3ランを打たれて,試合が振り出しに戻ってしまった。9回裏ジャイアンツは無得点で試合は延長戦に。陽が傾いて球場が夕方の空気に包まれ始めたこのあたりから,試合は死闘の様相を呈してきた(それはそれでナマラ燃えるものがあったが)。
 10回表ドラゴンズの攻撃で走者一,二塁の場面は,3番手で登板した鹿取が4番の落合を三振にうちとって危機脱出。その裏,続く11回表と両チーム得点がなく,11回裏ジャイアンツの攻撃となった。この頁をお読みいただいている方であれば,ご承知の方が多いかと思うが,円山球場にはナイター設備がないので,試合が長引くと日没引き分けという悪夢のような結末がありうる。既に午後5時を過ぎており,いくら晴天の7月といっても,プロ野球レベルでは次の回が行えるか微妙な時間となっていた。ジャイアンツは2番勝呂の代打岡崎,3番篠塚と凡退して二死となり,4番原が打席へ。ドラゴンズの投手は,9回から登板していた,当時ドラゴンズ抑えの切り札・郭源治(クローザーなんて言い方は,一般的には全然存在していなかった)。ここで原がレフトへ高々とこのシーズン第20号ホームランを放ってサヨナラ勝ち決定。4時間22分の熱戦を北海道シリーズ3連戦3連勝という最高の形で決着をつけた。原の6打数4安打に対して,落合は6打数ノーヒットと完全にブレーキ。4番の差で勝負がついたともいえる試合だった。
 吉村,呂とけが人が続いたなか,一時的とはいえジャイアンツファンの重たい気持ちを見事にブッ飛ばしたこのサヨナラホームランは,忘れられないインパクトがあった。
原
1988年7月8日付け日刊スポーツから
 三塁ベースへスライディングする原。三塁手が,9回に同点3ランを打った仁村弟。これは,兄の仁村薫が同時期ドラゴンズにいたため,スポーツ新聞等でこう表記されていた。本名は仁村徹である。
 なお,後方右寄りに建つバックスクリーン上にも,多くの観客が登っている。どう考えても,こちらの方が外野後方のフェンスに登るよりマズイと思う。

 試合時間があまりにも長かったため,ジャイアンツナインは当時の倉田マネージャーが奔走した結果,20時20分千歳空港発,この日最終便の航空機で帰京できたが,ドラゴンズナインは試合が5時を過ぎた時点で19時20分千歳空港発の名古屋行き航空機搭乗をキャンセル。3連敗したうえ,余計に一泊しなければならなくなったと,この試合翌日の日刊スポーツが報じていた。

※1〜背番号の系譜,7番の項をご参照ください。
※2〜ライトの呂に代わって蓑田がセンターからライトにまわり,川相がセンターに入った。価値ある一発を放った後,川相が守備位置につくと,外野席からも盛んに声援が飛んだ。それに対して,川相が振り返り小さく手をあげて応えたのが印象に残っている。当時ジャイアンツの選手は,試合中観客に対してそうした反応をあまりしなかったので,川相のちょっとした反応がえらく嬉しかった。
川相
1988年7月8日付け日刊スポーツから
 川相といえばショート,もしくはサードの印象が強いが,1988年はジャイアンツに故障者が続出したこともあって,センターやレフトを守ることがあった。また,川相がショートのレギュラーに定着したのは翌年の1989(H 1)年途中から。88年は53試合の出場にとどまり,うち外野手として21試合出場。ショートとしての出場はわずか7試合で,88年のショートのレギュラーは,このポジションで101試合に出場した岡崎郁だった。それだけに,川相が呂に代わって出てきた時も,失礼ながら打撃はまるで期待していなかった(球場全体も似たような空気だったと思う)。それが,前年ノーヒットノーランを食らっている近藤真一から一発放ったものだから,球場の95パーセントを占めていたといっても過言ではないジャイアンツファンが俄然活気づいたというのも,ご理解いただけるかと思う。
 記録については,オフィシャルベースボールガイド1989年版(プロ野球コミッショナー事務局編)を参照した。
文中敬称略
このページは営利をまったく目的とせず,個人の趣味のみで作成したものですが,権利関係で問題があり,権利者の方から指摘があった場合には,極力速やかに対応します。

作文の中で,当時の状況や個々の選手についての説明は最小限にとどめています。

 1988年,武田は成人に達していたので,酒を飲むことは可能でした。しかし,当時ジャイアンツ戦を円山球場の外野席で見ようと思ったら,酒どころか水分補給にもかなり神経を使わなければなりませんでした。もちろん,各人のおかれた状況によって異なりはしますが,武田についてはどのような状況だったのか,思い出して作ってみたのが別頁の表です(この文中に収まりませんでした…)。個人の昔話で,さらにカッタルイものですが,よろしければご覧ください。

円山球場でのジャイアンツ戦

もどる バックホーム